

―お孫さんの絵が入賞するというシーンからはじまりますよね。

ええ、あのシーンは原爆と現代との絡みだと思っております。あそこには2回訪れているのですよ。
はじめは妻とふたりでね。ちょっとわかりにくかったかもしれませんね。 |
―今回の作品は過去の作品の挿入が多くて総集編のようでしたが、これが最後の作品となるのですか?

今回の作品は、人から長編を撮ってみないかと言われたのがきっかけでしてね、今まで短いのしか作ったことがないので迷ったのですよ。やりますと言ってしまった後にね(笑)。ただそうやって自分を縛ったのが功を奏したと思っています。 |
―では次回作というのは?

次回作というのは難しいですが、あと7年で、撮り始めてから50年になります。私も80になりますがそれまでは撮り続けるつもりです。時間が経って、原爆が落とされた広島の人にさえ、まだ原爆と家族をテーマに映画を撮り続けるのかといわれます。薄れてきているんですよね。私は今だからこそ問題だと思っとるんですが。警告ができるほど強い作品でもないですが、また原爆が落ちるようなことがあったら大変ですよ。妻と同室の方が裸になって見せてくれたでしょ。やはり原爆に対する怒りがあるんですね。もちろん妻にも。やはり今回の作品は若い世代の方々に見てほしいですね。 |
―監督が8ミリを回そうと思ったきっかけは?

私は、自分の家族を中心に生きるということを表現したい、というのがありましてね。私は結核で8年間寝たきりだったのですが、隣の人が死んでいくというのはよくあることでした。死を意識することもあり、短歌や俳句で自己表現される方が多かったです。私も短歌をやっておりましたが病院を出て、結婚してから8ミリをはじめるようになりました。当時8ミリをやっている人は少なくて、コンクールに出せば入賞という感じでね。褒められているうちにその気になっていったのですよ。褒められる作品は、必ず家族の事をテーマにしたものでしたね。 |
―おふたりが過ごされた時間についてどのような感想をお持ちですか?

もう50年にもなるのですが、ふたりでいるときが一番喧嘩します。母がいるときは、妻も気をつかって本音を言わないようでしたが。友達のような感じですよ。今回も映画祭に連れて来たかったのですが、やはり病気ですからね。発表会みたいなものにも、一度も来たことありません。ただふたりだけになってからはひとりだと寂しいみたいでね。しょっちゅう連絡とろうと思いましてね、この年で携帯電話持ってますよ。私も妻がいなくなると考えると…。妻が苦しんでいるときにカメラをまわしているのはつらいですよ。 |
―そういった事実を撮るという残酷さについては。

母が動かなくなったシーンがあったでしょ。あそこはどう扱っていいか迷ったのですが、ああいう形で出しました。残酷だという人もいるのですが、表現する上では、出したくないこと出さねばならないときがあるのですよ。いろんな見方がありましてね、妻はあのシーンを入れたことを残酷だとは思ってないです。あれがあるから母と妻の関係が描けたわけです。ドキュメンタリーにはそういう要素がないと。ただ家族の事を、どの程度みせてよいものかというのはあります。妻が「私の人生を返して」というシーンがありますが、あれにも前後があるのですよ。でも全ては出せない。難しいですよ。 |
(山形国際ドキュメンタリー映画祭2001記録集より転載) |