つまのかお その瞳にはヒロシマと家族の姿が映っていた
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つまのかお|監督紹介
川本昭人 かわもとあきと
1927年、広島市生まれ。戦中から戦後にかけて結核により8年間の療養生活を送る。57年の広島大学工学部発酵工学科卒業後は父親の跡を継いで八幡川酒造(株)に入社。同社取締役社長・会長を経て2005年に引退。
1953年に妻・キヨ子さんと結婚。58年の長男誕生を機に始めた8ミリカメラでの撮影が創作活動の第一歩となり、以来、今日まで「家族」「家」「原爆」を見据える作品に取り組んでいる。三度の東京国際アマチュア映画コンクール受賞をはじめ、受賞作多数。ヒロシマ映像祭実行委員など広島における映画文化の発展に貢献するとともに、若手の育成にも力を注いでいる。
◆ 主な作品
「蝶々先生」(1969年) 東京国際アマチュア映画コンクール受賞
「私のなかのヒロシマ」(1973年) 東京国際アマチュア映画コンクール受賞
「おばあちゃん頑張る」(1974年) 東京国際アマチュア映画コンクール受賞
「妻の貌」(2001年) 神奈川映像コンクール グランプリ(短編)  山形国際ドキュメンタリー映画祭2001招待
『妻の貌』(2008年)  劇場公開ニューバージョンを完成する

『妻の貌』挿入短編作品
「一粒の籾」1964年 「私のなかのヒロシマ」1973年 「おばあちゃん頑張る」1974年 「きのう今日あす」1979年 「お嫁さん頑張る」1984年
「絆」1985年 「ヒロシマに生きる」2002年
監督インタビュー


―8ミリカメラを手にされたのは、長男誕生がきっかけだったそうですが。

そう、多くの父親と同じです。ただ、身近にあるものを撮るうち、次第に映像を通して自分の内部を語りたいという思いがふくらんできたのです。当初は、志に反して父の事業を継いだというわだかまりを内に抱えていたせいもあり、「家」とは、「家族」とはという思いにこだわってきました。そして、学徒動員で知り合った妻が1968年10月、原爆症を宣告され、わが家に重く暗い影を落とすになったこと。私自身もつらい思いがずっとあり、何かを言わずにはおれなかった。私は映画を撮ることで、自身の人としてのあり方を検証するという姿勢でいたいと思ってきました。
―ご家族を撮るということでの難しさはありませんか。

編集して作品にする以前に、とにかく四六時中カメラを向け丹念に家族の日常と撮り貯めていくわけです。
まったく抵抗がなかったと言ったら嘘になりますが、これだけ長く撮っていると家族も意識せず自然のまま。撮ることが私の愛情表現だから、その点を妻をはじめ家族が理解してくれればこそ続けてこられた。ただ、きれいごとではない本音をさらけだした場面もあるので、近所での作品上映となると今も嫌がりますよ。
―『妻の貌』は初の長編だそうですね。

旧知の新藤兼人監督の勧めもあり挑戦しました。1月に撮り終えてから編集に3ヶ月。過去の作品からの映像も含めた1時間54分の作品です。被爆から約半世紀、日常生活もままならない病人である妻が、私の母を13年間在宅介護して看取り、その一方で孫が誕生するといったことから、人の人生、生命の意味を考えました。孫を見てると、そこに私の父がいるんです。そんな尊いいのちの継承を断ち切ってしまう原爆や戦争とは何か…。若い人にもぜひ、見てもらいたい。人生経験によって、受け止め方はそれぞれでしょうが、それでいいと思っています。
(文化情報「to you」(2001年6月 発行・(財)広島市文化財団)より転載)


―お孫さんの絵が入賞するというシーンからはじまりますよね。

ええ、あのシーンは原爆と現代との絡みだと思っております。あそこには2回訪れているのですよ。
はじめは妻とふたりでね。ちょっとわかりにくかったかもしれませんね。
―今回の作品は過去の作品の挿入が多くて総集編のようでしたが、これが最後の作品となるのですか?

今回の作品は、人から長編を撮ってみないかと言われたのがきっかけでしてね、今まで短いのしか作ったことがないので迷ったのですよ。やりますと言ってしまった後にね(笑)。ただそうやって自分を縛ったのが功を奏したと思っています。
―では次回作というのは?

次回作というのは難しいですが、あと7年で、撮り始めてから50年になります。私も80になりますがそれまでは撮り続けるつもりです。時間が経って、原爆が落とされた広島の人にさえ、まだ原爆と家族をテーマに映画を撮り続けるのかといわれます。薄れてきているんですよね。私は今だからこそ問題だと思っとるんですが。警告ができるほど強い作品でもないですが、また原爆が落ちるようなことがあったら大変ですよ。妻と同室の方が裸になって見せてくれたでしょ。やはり原爆に対する怒りがあるんですね。もちろん妻にも。やはり今回の作品は若い世代の方々に見てほしいですね。
―監督が8ミリを回そうと思ったきっかけは?

私は、自分の家族を中心に生きるということを表現したい、というのがありましてね。私は結核で8年間寝たきりだったのですが、隣の人が死んでいくというのはよくあることでした。死を意識することもあり、短歌や俳句で自己表現される方が多かったです。私も短歌をやっておりましたが病院を出て、結婚してから8ミリをはじめるようになりました。当時8ミリをやっている人は少なくて、コンクールに出せば入賞という感じでね。褒められているうちにその気になっていったのですよ。褒められる作品は、必ず家族の事をテーマにしたものでしたね。
―おふたりが過ごされた時間についてどのような感想をお持ちですか?

もう50年にもなるのですが、ふたりでいるときが一番喧嘩します。母がいるときは、妻も気をつかって本音を言わないようでしたが。友達のような感じですよ。今回も映画祭に連れて来たかったのですが、やはり病気ですからね。発表会みたいなものにも、一度も来たことありません。ただふたりだけになってからはひとりだと寂しいみたいでね。しょっちゅう連絡とろうと思いましてね、この年で携帯電話持ってますよ。私も妻がいなくなると考えると…。妻が苦しんでいるときにカメラをまわしているのはつらいですよ。
―そういった事実を撮るという残酷さについては。

母が動かなくなったシーンがあったでしょ。あそこはどう扱っていいか迷ったのですが、ああいう形で出しました。残酷だという人もいるのですが、表現する上では、出したくないこと出さねばならないときがあるのですよ。いろんな見方がありましてね、妻はあのシーンを入れたことを残酷だとは思ってないです。あれがあるから母と妻の関係が描けたわけです。ドキュメンタリーにはそういう要素がないと。ただ家族の事を、どの程度みせてよいものかというのはあります。妻が「私の人生を返して」というシーンがありますが、あれにも前後があるのですよ。でも全ては出せない。難しいですよ。
(山形国際ドキュメンタリー映画祭2001記録集より転載)
2008年 / カラー / DVカム / 114分
監督 : 川本昭人  撮影:川本昭人  編集 : 川本昭人、小野瀬幸喜  ナレーター : 岩崎 徹、谷 信子、川本昭人
配給 : 『妻の貌』上映委員会  配給協力 : 東風、KAWASAKIアーツ
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